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データマネジメント
公開日:2018/07/17
はじめまして、エニイ住所ヲタ担当のK又です。普段は住所関連のプロダクト販売を担当しております。業務の性質上住所ばかり見てきたおかげで多少の知識は溜まりましたが、特に実人生に活かせることもなく歳を重ねて参りました。そこで、せめてこの場でその雑学的なお話でもさせていただければと思います。今後思いついた時にアップいたしますので、お付き合いください。
今回は住所表記の階層についてのお話です。
鹿児島県にこのような住所があるのをご存知でしょうか?
鹿児島県志布志市志布志町志布志2丁目1番1号
早口言葉や回文ではありません。鹿児島県志布志市の市役所の志布志支所の住所です(この説明もこんがらかってしまいそうですね)。わかりにくいので区切りにスラッシュを入れてみましょう。
鹿児島県/志布志市/志布志町/志布志/2丁目1番1号
これで少し見えてきました。スラッシュを頼りにこの住所を分解してみましょう。
「志布志市」の前にまず「志布志町/志布志」とは何なのかを見ていきたいと思います。
そのために江戸時代まで遡ってみましょう。かつて薩摩藩には外城(とじょう)制という独自の制度があって志布志(城)管轄地域を「志布志郷」と呼んでいました。その志布志郷の中に村々があり、そのうちのひとつが志布志村だったのです。江戸時代の村とは一つの集落・共同体くらいの単位とひとまずご想像ください。
それが明治になって町村制が敷かれ近代的な行政区としての志布志村ができるのですが、この志布志村は志布志郷の範囲がそのままスライドしたものでした。そして他の村々同様、元の志布志村は大字(おおあざ)として残りました。これは鹿児島だけでなく、全国で町村制を敷く際に同様のことが行われました(字名の残し方、再編成については地域によってさまざまです)。
その後、明治以後の志布志村は諸々の事情で3村に分裂。そのうちの東志布志村が大正時代に町制となり(曽於郡)志布志町になりました。これが「志布志町/志布志」の原型なのです。
時は大正・昭和・平成と流れて2006年、いわゆる平成の大合併の流れで志布志町・有明町(旧西志布志村の流れを汲む町)・松山町が合併して志布志市が誕生しました。この際、明治時代に大字ができた場合と同じ方法で古い地名が残されました。市名以下の地域名については必ずしも旧町村名を残さなくてよいのですが、志布志市は残す方を選び、新市名+旧町村名+元々の字名としたのです。
これがたとえば、現在の志布志市の本庁舎の住所ですと「鹿児島県志布志市有明町野井倉1756番地」となり、長いですがそれほど違和感はありません。しかし志布志の本家本流(あくまでも地名としてですが)の「志布志町/志布志」については「志布志」が3回も繰り返される結果となったのです。以上が「志布志市志布志町志布志」が出来上がった経緯です。
日本の住所・地名というのは、このように前近代の共同体の区域を示す名称(字名)と近代的な行政区を示す名称(市町村名)の組み合わせでできていることがお分かりいただけたかと思います。志布志のように旧地域名を積み重ねて行く場合もあれば、合併の際に旧市町村名や字名を無くしてしまったり合成させて新たな名称をつけて地名の歴史的痕跡(履歴)を消してしまう場合など、対応は地域によってさまざまです。
日本では明治・昭和・平成と3回市町村合併が大規模に行われましたが、地名が出来上がる過程はそのステップを同じくして階層化されていったものなのです。